最初に兎を見つけたのは、ミナだった。
「見て。かわいい」
白い花が広がる森の空地。その中央に、灰色の兎が一匹座っていた。丸い耳に、柔らかそうな毛。小さな鼻をひくひくと動かしながら、こちらを見上げている。
ただ一つ、普通の兎とは違うところがあった。額に、青い宝石が埋め込まれていた。朝露のように透き通り、木漏れ日を受けて淡く光っている。
「魔物か?」
剣士のガルドが剣の柄へ手を伸ばした。
「こんなにかわいい魔物がいるものですか」
ミナは笑いながら、兎の前へしゃがみ込んだ。兎は逃げなかった。それどころか、差し出された手へ自分から鼻先を寄せた。
「ほら。大人しいでしょう?」
「額の石は高く売れそうだな」
盗賊のロイが後ろから覗き込む。
「やめてよ。こんなにかわいいのに」
俺は少し離れた場所から、その様子を見ていた。牙は見えない。爪も小さい。片腕で抱えられるほどの大きさだ。それでも、この森で見た目だけを信じる気にはなれなかった。
「触るな。何をするか分からない」
「心配性ね、レインは」
その時、草むらが揺れた。
白い兎が姿を現した。額には赤い宝石がある。続いて、黒い毛並みの兎が花の間から顔を出した。こちらの額には黄色い石が埋め込まれていた。
三匹は寄り添うように座り、ほとんど同時に耳を動かした。
「兄弟かしら」
「毛の色も石の色も違うぞ」
ロイが目を細めた。
だが、それ以上は何も起こらなかった。兎たちは静かで、ミナに背を撫でられると気持ちよさそうに目を閉じた。やがてガルドも剣から手を離した。
「少し休むか」
俺たちは空地へ荷物を下ろした。ガルドは木の幹にもたれ、ロイは干し肉を取り出す。ミナは水筒の蓋へ水を注ぎ、兎たちの前へ置いた。
「レインも撫でてみれば?」
「遠慮する」
「かわいいのに」
また、草が揺れた。
茶色い兎が現れた。額には緑色の宝石がある。その兎は仲間の隣へ移動すると、三匹と同じ方向を向いて座った。
そこで初めて、違和感に気づいた。
先ほどまで好き勝手に動いていた兎たちが、一列に並んでいる。四匹とも瞬きもせず、じっと俺たちを見ていた。
「ガルド」
返事はなかった。木にもたれたまま、目を閉じている。
「寝たのか?」
「疲れていたんじゃない?」
ミナが答えた。
だが、その声は妙にゆっくりだった。
ロイは干し肉を手にしたまま、兎を見つめている。
「この石……きれいだな」
四つの宝石が、淡く明滅していた。呼吸するように、ゆっくりと。
眺めているうちに、頭の奥が温かくなった。足の疲れが消えていく。弓を握っている必要もないような気がした。
ここは静かだ。
安全だ。
少しくらい眠っても――。
俺は慌てて顔を背けた。
「見るな」
声を上げたつもりだった。だが、自分でも驚くほど小さな声しか出なかった。
その時、兎たちの視線が動いた。
俺ではない。
俺の後ろを見ている。
振り返る。
白い花の向こうから、一匹の兎が歩いてきた。雪のように白い毛。額には紫色の宝石。
そいつが四匹の隣へ座った。
五つの宝石が、同時に光った。
音はしなかった。風も吹かなかった。ただ、空地の色が少しだけ薄くなった。
ミナが崩れるように花の上へ倒れた。ロイは干し肉を落とし、その場へ座り込む。ガルドはもう動かない。
俺も膝をついた。
弓を握ろうとしても、指に力が入らなかった。
兎たちは静かにこちらを見ていた。丸い瞳。柔らかな毛。触れれば温かそうな、小さな身体。
なのに、その目には何もなかった。
俺が眠るのを、ただ待っている。
地面へ手をつき、顔を伏せた。
見るな。
眠るな。
そう思うほど、まぶたが重くなった。紫色の光が、閉じた目の裏に残っている。
その時、森の奥で枝の折れる乾いた音がした。
五匹の兎の耳が一斉に音の方へ向き、揃っていた宝石の光がわずかに乱れた。ほんの一瞬だったが、頭の奥を覆っていた眠気に小さな隙間が生まれた。
今しかない。
そう思って腰の短剣へ手を伸ばしたが、腕は鉛のように重かった。指先も自分のものではないようで、柄に触れるだけでもひどく時間がかかる。
もう眠ってしまえばいい。
仲間たちも眠っている。お前だけが起きている必要はない。
そんな考えが、自分の意思を装って頭の中へ入り込んでくる。
違う。
これは俺の考えじゃない。
俺は歯を食いしばり、何度も指を動かした。ようやく短剣の柄を掴み、鞘から半ば引きずり出すように抜く。刃を手のひらへ押し当てても、最初は冷たさしか感じなかった。
紫色の光が再び強くなり、兎たちの耳がこちらへ戻り始める。
間に合わない。
俺は刃を強く握り込んだ。
鋭い痛みが走り、息が詰まった。
その瞬間、ぼやけていた景色が急に鮮明になった。白い花。五匹の兎。揃って明滅する宝石。そして、地面に倒れた仲間たち。
俺は傷ついた手を地面へ伸ばした。だが、まだ力が入らない。指先は土の表面を引っかくだけで、うまく掴めなかった。
兎たちの光が、再び同じ速さへ戻っていく。
「させるか……」
声はほとんど出なかった。
俺は手のひらを地面へ叩きつけた。土と白い花びらが舞う。もう一度叩き、ようやく指の間に土を掴むと、そのまま兎たちへ投げつけた。
土の塊が、白い兎の額へ当たった。
兎は驚いたように跳ね、隣の兎へぶつかった。
列が崩れた。
次の瞬間、五つの宝石の光がばらばらになった。
頭の中で、張りつめていた何かが弾けた。
遠くなっていた森の音が一気に戻ってくる。風が木々を揺らす音。葉の擦れる音。自分の荒い呼吸。
身体を押さえつけていた重さも、眠気も、急に薄れていった。
俺は立ち上がり、弓へ手を伸ばした。
だが、兎たちは襲ってこなかった。
一匹が白い花を蹴って草むらへ飛び込み、それを追うように残りの兎も散っていく。花が大きく揺れ、その向こうへ小さな背中が次々と消えていった。
あとに残ったのは、静かな空地と、眠り込んだ三人だけだった。
「かわいい、か」
荒い息を吐きながら、手のひらを布で縛った。
三人とも生きている。
だが、肩を揺すっても目を覚まさない。
その時、草の奥で小さな光が瞬いた。
一つ。
木の陰に、もう一つ。
岩の隙間にも。
目が暗がりに慣れるほど、光は増えていった。
十。
二十。
いや、それ以上。
空地は、最初から兎たちに囲まれていた。
俺はガルドの肩を掴んだ。
「起きろ」
反応はない。
森の奥から、小さな足音が重なり始めた。
白い花の向こうで、一匹の兎が姿を現した。続いて、もう一匹。その隣に、三匹目。
俺は眠る仲間たちの前へ立ち、弓へ矢をつがえた。
四匹目が並んだ。
そして、その後ろ。
暗い草むらの中で、紫色の宝石がゆっくりと光った。
