アルセリアには、国宝に指定されている本がある。
そう聞くと、金細工の表紙に宝石でも埋め込まれた立派な本を想像するだろう。
実物は違うらしい。
ボロボロだそうだ。
紙は変色し、ところどころ欠け、文字も掠れている。
しかも原本ではない。
写本だ。
国宝なのに。
その本は、
『隠遁者の観測日誌』
と呼ばれている。
名前からして胡散臭い。
さらに胡散臭いことに、一冊ではない。
何巻もある。
では全部で何巻なのか。
誰も知らない。
少なくとも俺が買った解説書には、そう書いてある。
アルセリア王家が保管しているものだけでも複数巻。
古い修道院から一巻だけ見つかったという話もある。
どこぞの貴族が未確認の一巻を持っているという噂もある。
同じ巻なのに内容が微妙に違う写本まであるそうだ。
もう何が何だか分からない。
それでも、この『隠遁者の観測日誌』はアルセリアでは特別な本として扱われている。
なにしろ、森について書かれた記録としてはとにかく古い。
いつ書かれたのかは分からない。
誰が書いたのかも分からない。
なのに古い出来事について妙に詳しい。
だから歴史家の中には、森に関する出来事を調べる際、こいつを正史に近い資料として扱う者までいるらしい。
ほんとかいな。
ちなみに、俺も持っている。
国宝を盗んだわけじゃない。
その写しだ。
正確に言えば、
国宝に指定されている写本を誰かが写したものを、さらに誰かが写した本。
たぶん。
それすら本当か分からない。
こういうものが裏で大量に出回っている。
アルセリアの古書店へ行けば、案外簡単に見つかる。
店の親父に聞いたら、
「第七巻ならあるぞ」
と言われた。
値段も安かった。
冒険者が買うから、需要があるらしい。
実際、役に立つこともある。
例えば催眠群れ兎。
あいつらについて、俺の本にはこう書かれている。
一匹、二匹なら問題ない。
だが群れが五匹以上になると、周囲に強い眠気を引き起こす。
戦おうとせず、数が集まり始めた段階で距離を取れ、と。
これは本当だった。
知り合いが五匹に囲まれて眠った。
起きたら荷物の食料が全部なくなっていた。
本人は笑っていたが、一人だったらそのまま別の魔物に食われていただろう。
だから冒険者はこの本を馬鹿にしない。
怪しい。
怪しいのだが、
たまに本当に命を救う。
それが一番困る。
全部嘘なら捨てればいい。
全部本当なら信じればいい。
だが、これは違う。
妙に具体的で役に立つ記述の間に、突然わけの分からない話が混ざっている。
例えば、
「森の攻略作戦」
という出来事。
何千人もの人間が森へ入った、とある。
確かにそういったことが数十年前にあったとは知っているが、
何だか詳細が違う。
それに、書き方がおかしい。
ずいぶん昔の出来事のように書いてあるけれど、最近あった話とは違うこと?
それとも写した奴が勝手に言葉を直した?
分からない。
もっと意味不明なのが、
「獣人が生まれた日」
という記述だ。
何だ、それは。
ノルヴァルドの獣人が、ある日突然ぽんと生まれたとでもいうのか。
比喩なのか。
国ができた日のことなのか。
それとも本当に何かがあったのか。
肝心なところで文章が欠けている。
そして、俺が一番気になっているのは別のことだ。
これ、本当に一人で書いたのか?
『隠遁者の観測日誌』というくらいだから、誰か一人の記録のようだと思われている。
だが、おかしい。
古い出来事もある。
比較的新しい出来事もある。
何世代分あるのか分からないほど、森の変化が記録されている。
もし全部同じ人物が書いたなら、
そいつはいったい何歳なんだ。
だから俺は思っている。
「隠遁者」というのは、人の名前ではないんじゃないか。
何かの役目。
あるいは、何代も続いている集団。
森のどこかにいて、
ずっと森を観察し、
何かが起こるたびに記録する連中がいる。
そして、ときどきその記録が外へ出る。
……なんてな。
我ながら、安物の写本を読みすぎたと思う。
そもそも俺が持っている本だって、
誰が、
いつ、
何を見て写したものなのか分からない。
写し間違いだってあるだろう。
面白半分で文章を足した奴がいるかもしれない。
都合の悪い部分を消した奴もいるかもしれない。
原本とやらには、
「獣人が生まれた日」
なんて一文は最初から存在しない可能性だってある。
だから、どこまで信じていいのやら。
文:モリノシン
