森の浅層と深層、そのちょうど境目あたりに、妙な場所がある。
オーガどもの縄張りへ入る少し手前だ。
俺たちは「緩衝地帯」と呼んでいるが、一部の冒険者はあそこを「空白地帯」と呼ぶ。
理由はいくつかある。
まず、木がない。
あれだけ鬱蒼と木々が生い茂っている森の中で、なぜかそこだけ山肌が剥き出しになっている。地面には灰色の岩と乾いた土が広がり、申し訳程度に細い草が生えているだけだ。
森の中に、ぽっかりと穴が開いているように見える。
もっとも、危険度そのものはそれほど高くない。
少なくともオーガの縄張りよりはずっとマシだ。
見通しも良いから、深層へ向かう冒険者が野営地として利用することも多い。俺も何度かあそこで夜を明かしたことがある。
ただし、一つだけ忠告しておく。
あそこにいる魔物には、なるべく近づかない方がいい。
強いからではない。
よく分からないからだ。
空白地帯では、他の場所では見かけない奇妙な魔物が現れる。
石ころの塊にしか見えないものが突然歩き出したり、木の枝のようなものが地面を這っていたりする。
生き物なのか。
植物なのか。
それとも、ただの物質なのか。
見ただけでは判断できないものが多い。
中でも一番わけが分からないのが、俺たちが「パンドラマウス」と呼んでいる魔物だ。
名前を付けた奴が誰なのかは知らない。
丸い身体に、不釣り合いなほど大きな口。
そして、その周囲から伸びる無数の触手。
ネズミに似ていると言う奴もいるが、俺にはまったくそうは見えない。
そもそも、あれが生き物なのかどうかすら怪しい。
呼吸している様子もなければ、餌を食っているところを見た奴もいない。
ただ、時折あの大きな口を開けている。
何のためなのかは知らない。
俺なら絶対に近づかない。
単純に、触手が気持ち悪いからだ。
ところが最近、妙な噂を耳にするようになった。
パンドラマウスは、触れたものの形を変える。
そんな話だ。
最初に言い出したのは、深層帰りの冒険者だったらしい。
そいつは空白地帯で休んでいる最中、拾ってきた財宝の一つをパンドラマウスに奪われた。
銀でできた古い杯だったという。
触手が杯に触れた瞬間、銀の表面がぐにゃりと歪んだ。
溶けたわけではない。
砕けたわけでもない。
まるで最初から別の物だったかのように形を変えた。
そして最後には、見たこともない小さな金属の塊になったそうだ。
冒険者は取り返そうとしたが、パンドラマウスはそれを口の中へ放り込んだ。
その後どうなったのかは知らない。
似たような話は他にもある。
折れた剣を持っていかれた。
宝石の色が変わった。
空になった革袋が、硬い石のようになって落ちていた。
中には、
「奴らは物を作り替えている」
なんて言う奴までいる。
馬鹿馬鹿しい。
魔物が財宝の形を変える?
そんなことがあるものか。
空白地帯まで来る冒険者なんて、何日も森の中を歩き続けて疲れ切っている。
そいつも必死だったんだろう。
目の前で財宝を奪われて、見間違えたに決まっている。
俺はそう思っている。
……ただ、一つだけ気になることがある。
前回、空白地帯を通ったときだ。
岩陰に一匹のパンドラマウスがいた。
近づくつもりはなかった。
だが、その足元に何か落ちていた。
錆びた金属片だった。
何となく見覚えがあった。
ずいぶん昔、浅層でよく見かけた冒険者用の銅貨だ。
ただし、形がおかしかった。
銅貨の中央から、
小さな指のようなものが一本、生えていた。
もちろん拾ってはいない。
確認もしていない。
あんなものに触る奴の気が知れない。
だから、見間違いだったと言われれば、それまでだ。
俺自身、そうだったと思うことにしている。
空白地帯を通るなら、余計なことは考えない方がいい。
休んで、水を飲んで、さっさと深層へ向かえ。
文:雨森トウカ
