俺は、森が怖い。
こんなことを言うと、たいてい笑われる。
あの森は国の恵みだ、と。
俺たちは森から魔道具を得て、宝石を得て、薬を得てきた。森がなければ、この国は今ほど豊かにはならなかった。
だから森を恐れるのではなく、敬え。
森と共に生きろ。
子どもの頃から、何度もそう教えられてきた。
でも、俺には無理だ。
あれは恵みなんかじゃない。
俺には、森そのものが巨大な魔物に見える。
木々を歯のように並べて、大きな口を開けて、俺たちが入ってくるのをじっと待っている。
だって、そうだろう。
何人が、あそこから帰ってこなかった?
隣に住んでいたおっさんもそうだった。
俺がまだ小さかった頃、「ちょっと稼いでくる」と笑って出ていった。
帰ってこなかった。
兄さんもそうだ。
幼馴染のエルランもそうだ。
エルランは俺より臆病な奴だった。
初めて森に入る前の晩、怖くて眠れないと言っていた。
俺は笑った。
「浅層だけなら大丈夫だ」
そう言った。
今でも覚えている。
あいつは、帰ってこなかった。
そして俺も、昔は冒険者だった。
だから余計に分かる。
森は、遠くから眺めていると静かだ。
中に入っても、最初のうちは静かだ。
鳥が鳴いて、風が吹いて、木漏れ日が差している。
だから勘違いする。
ここなら大丈夫だ、と。
そのうち、もう少し先へ行ける気がしてくる。
あと少し。
もう少し。
あの木の向こうまで。
あの岩の先まで。
そうやって、人は森の奥へ入っていく。
俺もそうだった。
だから冒険者を辞めた。
もう二度と、あそこへは行かない。
そう決めた。
――ただ。
一つだけ、森から持ち帰ったものがある。
正確には、俺が持ち帰ったものじゃない。
兄さんのものだ。
森で発見された魔道具は、本来ならギルドへ届けなければならない。
価値の高いものなら、そのまま国へ献上されることもある。
冒険者なら誰でも知っている決まりだ。
だから、これを持っていることは誰にも話していない。
兄さんと最後に森へ入った男が、俺に渡してくれた。
ずいぶん傷だらけの男だった。
兄さんはどうした、と聞いた。
男は何も答えなかった。
代わりに、小さな包みを差し出した。
「荷物のそばに落ちていた」
それだけだった。
「たぶん、あいつのだ。形見だと思って持ってろ」
包みの中に入っていたのが、これだ。
手のひらに収まるくらいの、小さな魔道具。
丸い文字盤がついている。
最初は時計だと思った。
だが、針は動かない。
数字もない。
代わりに、文字盤の周囲には見たことのない記号が刻まれている。
振っても駄目だった。
火に近づけても、水につけても、月明かりにかざしても何も起こらない。
魔力を流せる奴にも見てもらおうかと思った。
でも、やめた。
これを誰かに見せれば、どこで手に入れたのか聞かれる。
そうなれば、きっとギルドに持っていかれる。
だから箱に入れて、ずっとしまってある。
使い方は、今も分からない。
そもそも本当に兄さんのものだったのかも分からない。
ただ。
ときどき箱から出して、眺めることがある。
不思議なんだ。
初めて見たはずなのに。
触っていると、ひどく懐かしい気持ちになる。
今日も文字盤は動いていない。
針はずっと同じ場所を指している。
窓の外には、遠く森が見える。
あの向こうに、兄さんが消えた。
エルランも。
隣のおっさんも。
だから俺は行かない。
何があっても、もう森には近づかない。
そう決めている。
文:榛名ユキト
