木樽亭は、昼を過ぎても騒がしかった。奥の卓では冒険者たちが戦利品の分配をめぐって言い争い、厨房の近くでは酔った戦士が、昨日倒した魔物の大きさを話すたびに少しずつ巨大にしている。焼いた肉と香草、それにこぼれた酒の匂いが店内に満ちていた。
新米冒険者の少年は、その騒がしさに気圧されながら、店の隅に座る大男へ近づいた。大男は卓の半分を占領するように腕を広げ、大きな木杯を傾けている。背中には使い込まれた大剣。頬には古い傷。声を出せば、酒場中の客が振り返りそうな男だった。
「すみません。魔法の森について、話を聞かせていただけませんか」
男は杯の縁から少年を見た。
「おい。そういう時は一杯おごるのが礼儀だぞ、小僧」
少年は財布の中身を確かめた。
「……分かりました。エールでいいですか?」
「分かったならいい。それで、何が聞きたいんだ?」
ほどなくして新しいエールが運ばれてきた。男は当然のように自分の前へ引き寄せ、ひと口で泡を半分ほど減らした。
「森へ入るなら、どの国から入るのがいいのか知りたいんです」
「やめておけ」
男は即答した。
「それでは話が終わってしまうじゃないですか」
「終わらせた方がお前のためだ。森へ入って、財宝を見つけて、無事に帰る。言葉にすれば簡単だが、最後の一つができない奴が多い」
「それでも、冒険者になったからには、一度は行ってみたいんです」
「一度で満足する奴ならまだましだな。大きな財宝を持ち帰った奴ほど、また森へ戻る。二度目はもっと奥へ。三度目は、前に逃した財宝を取りに行く。そして気づけば、町より森にいる時間の方が長くなる」
男は笑った。少年には、それが冗談なのか忠告なのか分からなかった。
「それでも行くなら、入口を選べ。魔法の森は五つの国に囲まれている。どの入口から入るかで、見える森はまるで違う」
「同じ森ではないんですか?」
その言葉を聞くと、男は豪快に笑った。
「これだから新米は面白い。同じ森だとも。だが、同じ顔を見せるとは限らん。緑の木々が続く場所もあれば、氷の結晶に覆われた森もある。火山灰が降る森も、地の底へ続く森も、水の中へ沈んだ森もある」
男は卓の上に、指で大きな円を描いた。
「森は真ん中だ。その周りに五つの国がある。どの国も森を自分の領土だとは言えん。昔は軍を送り込んだ国もあったが、森の中では大軍ほど動きが鈍くなる。道は変わり、補給路は消え、部隊は分断される。だから今は、国家がギルドへ依頼を出し、ギルドが俺たち冒険者を森へ送る」
「国は、それほどまでに財宝が必要なんですか?」
「必要だ。森から持ち帰る宝石や鉱石には魔力が宿っている。街の灯り、工房の炉、医療器具、通信、結界、防壁。どれも財宝から取り出した魔力に支えられている。国にとって財宝は、飾りではなく資源だ」
五つの国は、同じ魔法の森を必要としている。しかし、森との向き合い方はそれぞれ異なっていた。ある国は森と生きようとし、ある国は森から恵みを求める。ある国は森を売り、ある国は読み解き、ある国は攻略しようとしている。
男は卓に描いた円の縁を叩いた。
「最初はアルセリア王国だ。お前が今いる、この国だな」
「アルセリアから入ると、どんな場所へ出るんですか?」
「森だ」
少年は少し困った顔をした。
「もう少し詳しくお願いできますか」
「普通の森だ。もっとも、普通に見えるというだけだがな」
男は喉を鳴らして笑った。
「アルセリア側には、深い広葉樹林が続いている。木漏れ日の差す獣道、小川、苔むした石橋、森に飲み込まれた古い街道。昔の見張り小屋や祠も残っている。五つの入口の中では、誰もが思い浮かべる魔法の森に一番近い」
「新米向けの入口なんですね」
「ギルドはそう言う。道が比較的見つけやすく、浅層の依頼も多い。ゴブリン、コボルト、トレント。森の代表的な連中にも出会いやすい。財宝探しの基本を覚えるにはいい場所だ」
少年は安心したようにうなずいた。
「では、最初はアルセリアから入るのがよさそうですね」
「早い。アルセリア側の森が厄介なのは、普通の森に見えることだ。道があり、橋があり、誰かが残した野営跡もある。だから新米は、自分が森を理解したつもりになる」
男は空中で指を折った。
「同じ木を三度通っても気づかない。渡ったはずの橋へ戻ってくる。昨日までは東へ流れていた川が、翌朝には西へ流れている。それでも景色は森のままだ。火も氷もない分、異常に気づくのが遅れる」
「見慣れた景色だからこそ、油断するということですか?」
「そういうことだ。アルセリアは森を求める国だ。王家も騎士団も商会も学術院も、森の恵みを必要としている。制度は整っているし、入域許可や報酬も分かりやすい。だが、森を身近な資源だと思いすぎている節がある」
男は次の入口を示すように、円の右下辺りを叩いた。
「ノルヴァルド獣邦。獣人たちの国だ」
「獣人の方々が暮らす国ですね」
「そうだ。狼、狐、猫、熊、鹿。いろいろいる。国によっては獣人を歓迎しない者もいるが、森の中で奴らを見下すのはやめておけ。少なくとも、氷晶の森では人間よりずっと頼りになる」
「氷晶の森……」
「ノルヴァルド側から入ると、森は青白く変わる。木々の枝も、岩肌も、地面の裂け目も、氷の結晶に覆われている。凍った湖、雪に埋もれた渓谷、冷気を吐く洞窟。吹雪の中では、近くにいる仲間の姿さえ見えなくなる」
「寒さに耐えられる装備が必要ですね」
「それだけじゃ足りん。あそこでは、音まで凍ると言われている。雪原で声を張り上げても、少し先の仲間に届かないことがある。逆に、ずっと遠くの足音が耳元で鳴ることもある」
男は自分の耳を指した。
「ノルヴァルドの案内人は、目で道を探さない。風の匂い、雪の沈み方、氷晶の伸びる向き、魔物の足跡を見る。道が目の前にあっても、『今日は森が通す気ではない』と言って引き返すことがある」
「本当に森の意思が分かるのでしょうか?」
「知らん。だが、忠告を無視した奴は、だいたい帰ってこない」
「それなら、従った方がよさそうですね」
「賢い小僧だ。ノルヴァルドは森と生きる国だ。森を征服するのではなく、気配を読み、怒らせずに通る。人間から見れば迷信に見えることもあるが、氷の下に何が眠っているか分からん土地では、その慎重さが命を救う」
男は次に、円の上側を強く叩いた。
「ガルドレイク鉄律国。ここから入るのが、火山ルートだ」
「森の中に火山があるんですか?」
「ある。森の方が火山へ広がったのか、火山が森を飲み込んだのかは知らんがな」
ガルドレイク側の森は、入口付近からすでに異様だった。木々は黒く焼け、葉の代わりに赤く光る薄片をつけている。地面には亀裂が走り、その奥で溶岩が脈打つ。火山灰の降る平原、黒曜石の岩場、熱気を噴き出す洞窟、溶岩の流れる谷。その間を、かつてガルドレイクが築いた軍道や砦跡が縫うように続いている。
「そんな場所を、本当に進めるんですか?」
「ガルドレイクの連中は進む。耐熱装備を作り、休憩時間を決め、火山灰の量を測り、噴火の間隔を記録する。何歩進んだか、どこで魔物に襲われたか、何刻で水を飲んだか。全部だ」
「ずいぶん計画的なんですね」
「規律、訓練、記録、計画。それがガルドレイクだ。あの国は森を神秘のままにはしておかない。火山が噴くなら、噴く時刻を調べる。溶岩で道が消えるなら、別の道を掘る。魔物が現れるなら、倒すための部隊を編成する」
「それは、頼もしいようにも思えます」
「頼もしいさ。実際、あの国の装備と行軍術は優秀だ。だが、森は攻略されるのを嫌う」
男の声が少しだけ低くなった。
「昔、ガルドレイクは森の中に砦を築いた。火山ルートを越え、さらに奥へ進むための拠点だった。軍道も補給所も作った。だが、ある日、砦へ続く道ごと消えた。戻ってきた兵士は少ない」
「それでも、今も攻略を続けているんですか?」
「奴らに言わせれば、失敗したのではなく、まだ完成していないらしい。火山ルートは、森に勝とうとする者の道だ。進めば進むほど、どちらが相手を屈服させるかという話になる」
男は今度は、円の右側を指した。
「次はメルカディア商盟国。商人の国だ」
「財宝の取引が盛んな国ですね」
「よく知っているな。メルカディアの連中は、森から持ち帰ったものなら何にでも値段をつける。宝石、魔道具、魔物の角、古い地図、誰かの探索記録。売れるものは何でも売る」
「メルカディア側も、乾いた森が続くのでしょうか?」
「入口付近はな。だが、本当の見せ場は地の底だ」
メルカディア側の浅層には、乾いた森と岩地が広がっている。砂に埋もれた交易路、崩れた関所、放棄された荷馬車道。だが、奥へ進むと大地そのものが裂け、巨大な断層が口を開ける。
その下には、地底樹海がある。
空ほども高い天井から、巨大な根が逆さに伸びている。鉱石に覆われた樹木、光を放つ結晶洞窟、山のように動く岩石の魔物。地鳴りが起きるたびに道は崩れ、別の空洞が現れる。さらに深い場所には、森に埋もれた地下都市や、古い市場の跡があるという。
「地下にも森があるんですか?」
「森は地上にしかないと、誰が決めた?」
男はにやりと笑った。
「メルカディアの商会は、地底樹海の鉱石や結晶に目をつけている。採掘権を買い、冒険者へ装備を貸し、持ち帰った財宝を買い取る。中には、まだ見つかってもいない鉱脈の権利を売っている商人までいる」
「見つかっていないものを売るんですか?」
「メルカディアでは、見つかる可能性にも値段がつく」
「やはり信用していいのか分かりませんね」
「信用するな。契約書を読め」
男は大声で笑った。
「だが、地底ルートへ挑むなら、あの国の支援は役に立つ。掘削道具、荷運び用の魔道具、崩落に備えた保険。ただし、財宝をたくさん持ち帰るほど、取り分について揉めることになる」
「メルカディアは森を売る国、ということですね」
「そうだ。森の中にあるものだけではない。森へ入る権利も、帰還できる可能性も、冒険者の命さえ商売にする」
最後に、男は円の下側を指でなぞった。
「ヴェル=ミラ聖院国。ここから入るのが、水のルートだ」
「湿地が多いと聞きました」
「入口だけ見ればな。少し奥へ進めば、湿地では済まん。森そのものが水へ沈んでいる」
ヴェル=ミラ側では、霧の中に水没した木々が立っている。最初は足首ほどだった水が、進むにつれて腰まで上がり、やがて道そのものが水面の下へ消える。森の樹冠だけが島のように浮かび、その下には沈んだ石碑、祭壇、石造都市が眠っている。
さらに奥では、水中にあるのに息ができる場所もあるという。巨大な根の間を魚のような魔物が泳ぎ、光る珊瑚が木々を覆う。水面には過去の景色が映り、沈んだ遺跡の窓から、誰もいないはずの灯りが見えることもある。
「海のようですね」
「海とは違う。あれは森だ。水の中でも、木々は生きている。根はさらに深い場所へ伸びている」
「ヴェル=ミラの方々は、そこで何を探しているんですか?」
「答えだ」
「答え?」
「森が何なのか。財宝がなぜ生まれるのか。沈んだ祭壇を誰が作ったのか。水面に映るものは過去なのか、幻なのか。ヴェル=ミラでは神官、学者、導術師、記録官が、森の意味を調べている」
「研究が進めば、森の正体も分かるのでしょうか?」
「さあな。同じものを見ても、神官は神託だと言い、学者は魔力現象だと言い、導術師は森からの警告だと言う。それで三日三晩議論する」
「結局、誰が正しいんですか?」
「森に聞け」
男は肩をすくめた。
「ただ、分からないものを壊さず、分からないまま記録して残すことに関しては、あの国が一番だ。水の底から見つかるものには、ほかの国では扱えない品も多い。正体不明の魔道具、読めない碑文、まだ起きていない出来事を映す水鏡。そういうものを見たいなら、ヴェル=ミラへ行け」
少年は、卓上に描かれた円を見つめた。
「森、氷、火山、地底、そして水の中。それでも、全部同じ魔法の森なんですね」
「そうだ。どの入口から入っても、遠くには同じ大樹の影が見える。だが、どれだけ進んでも近づかない」
「五つの国は、同じ森を見ているのに、考え方もずいぶん違うんですね」
「ノルヴァルドは森と生きる。アルセリアは森の恵みを求める。メルカディアは森を売る。ヴェル=ミラは森を読み解く。そしてガルドレイクは森を攻略しようとする」
男は空になった杯を持ち上げた。
「だがな。国がどう考えようと、森の中で歩くのは冒険者だ。国は依頼書を出す。ギルドは報酬を決める。学者は記録を残す。だが、魔物の前で剣を抜き、財宝を持って帰るのは俺たちだ」
「あなたは、どの入口から入ることが多いんですか?」
「依頼料が高いところだ」
男は迷わず答えた。
少年が呆れた顔をすると、男は腹を抱えて笑った。
「何だ、その顔は。国の思想で腹が膨れるか? 俺たち冒険者は金をもらって森へ入る。だが、小僧。どの入口を選ぶにしても、一つだけ覚えておけ」
男は笑いを止め、少年を真っすぐ見た。
「入口ごとに森の姿は違う。だが、奥へ行くほど、どの道も同じ場所へ近づいているように見える」
「森の中心ですか?」
「それが分かれば、今ごろ俺はこんな酒場で安酒を飲んでいない」
男は再び豪快に笑い、空の杯を少年の前へ押し出した。
「さて、次は何が聞きたい?」
「まだ話していただけるんですか?」
「もちろんだ」
男は杯を指先で叩いた。
「ただし、次は強い酒にしろ」
